あなたは、覚悟を決めることができますか?
組織に縛られず自分らしく輝きたい!
私には就職当時から漠然としてではあるが独立志向があった。チャンスがあれば、定年を迎える前に独立してみたいということは、結婚前から妻に伝えていた。それを妻がどこまで真剣に受け止めていたかはわからないが、何度となく口にしていたので、あながち冗談で言っているわけではないと感じていただろう。
課長になってから、仕事が辛くなればなるほど、この脱サラ起業の想いは頭を離れなくなっていた。組織に縛られずに輝きたいと思う一方で、「どうせ無理」「自分にそんな才能はない」「失敗したらどうするのか」「家族が路頭に迷ったらどうするのか」、そんな不安な気持ち、怖れの感情が脱サラの想いを封じ込めてきた。
会社を辞めると決めたつもりだが、決め手がほしい。
だがしかし、「人間辞めるか、会社辞めるか」というギリギリのところまで追い込まれている中で、すでに答えは決まっていた。会社を辞めることだ。私にとっての覚悟とは、会社を辞めて、退路を断つことだった。
自分の中では、辞めると決めたつもりだったが、まだ踏ん切りがつかなかった。なにか一気に動き出せるきっかけを探していた。なにか勢いがつくようなものがないと、家族や上司の説得の段階で腰折れしてしまうのではないか、そんなことを危惧していた。そんな中で、私の背中を勢いよく押してくれたものが、一冊の本と早期退職制度だった。
苦悩する中で出会った一冊の本 「自分はかけがえのない存在か」
その本とは、文化人類学者の上田紀行著「生きる意味」。この中の一節が自分の胸に突き刺さった。特に自分の気持ちを揺さぶった部分を紹介する。
・長い間、この日本社会で私たちは「他者の欲求」を生きさせられてきた。他の人が欲しいものをあなたも欲しがりなさい。そして「他者の目」を過剰に意識させられてきた。他の人が望むようなあなたになりなさい。しかし、そうやって自分自身の「生きる意味」を他者に譲り渡すことによって得られてきた、経済成長という利得はすでに失われ、私たちは深刻な「生きる意味の病」に陥っている。(中略)いま私たちの社会に求められていること、それは「ひとりひとりが自分自身の『生きる意味』の創造者となる」ような社会作りである。
この本を読んでから、「自分は会社にとってかけがえのない存在なのか」というこの問いが絶えず頭の中にあった。デンソーという会社はカリスマなき超優良企業で、強力なリーダーシップを発揮するオーナー創業者がいるわけではなく、盤石な組織力で成り立っている会社だ。そんな会社の中で「かけがえのない存在」などあるのだろうか。私は間違いなく「交換可能な存在」だと自覚するようになっていた。
「早期退職制度」が背中を押す。
その本に出会ってまだ気持ちが揺れ動いているときだった。会社には管理職専用サイトがあり、ときどき覗いてみる程度だったが、その日も息抜き程度にサイトを閲覧していた。必要なときに必要なモノに出会うとはよくいったものだ。というのは、そのとき私は今後の進路を決定づける重要な制度があることを初めて知った。それは「早期退職制度」だった。そんな自分にとって大事な制度になぜいままで気づかなかったのか不思議だが、とにかく自分が迷っているときに見つけたのだ。
私の年齢からすると、あと1年で制度適用が可能になるということを意味していた。この瞬間、小躍りしたいような気持だった。これで、会社を辞めて宿願の農業に進むことができるかもしれない、自分の中では腹が固まった。
想いだけではなく、資金面からの将来設計を妻に説明して説得。
一冊の本と出会い、早期退職制度も見つけたことにより、「脱サラ農起業」に向けて一気に動き始めた。(なぜ農業なのか、については後述)ただ20代30代の起業と違い、勢い任せに行くのではなく、少し冷静かつ慎重になって、ハードルをひとつずつクリアしていく必要がある。最初のハードルは妻の説得だ。妻との間にはある程度の信頼関係は築けていると思っていたが、この先一番の不安材料は、これから経済的に成り立っていくか、ということだ。気持ちだけ伝えるだけでは不十分なので、この先、生活していけるのかを数字で説明することにした。
私は長年、事業計画担当だったので、お金の流れ、キャッシュフローをわかりやすく整理してみた。退職金、生活費、教育費などは精度の高い数字が把握可能だが、農業については、まだどんな事業にするのか決まっていなかったので、新規に農業を始めた場合のモデルケースを参考に農業への初期投資、必要経費、売上を整理して数年間の収支を計算した。
妻には、「会社を辞めて農業で起業したい」という気持ちを正直に伝えた。そして早期退職制度を活用し起業すれば、すぐに家族が路頭に迷うようなことはないことを、用意しておいたキャッシュフローで説明した。
前述したように、私にはもともと独立志向があったので、ある程度予防線を張っていた。だから妻もある程度、心の準備はできていたようだ。とうとうそのときがきたかという気持ちだったようで、意外にもあっさり「一度しかない人生だし、やってみたら」「いざとなったら私も働いてなんとかするわ」と言ってくれた。妻は小学校教諭の免許を持っていたので、フルタイムで教員をすれば、家族4人なんとかやっていけるはずだという腹積もりがあったようだ。
覚悟した瞬間、不安はすべて期待に変わった。
辞表は最終的には所属事業部の最高責任者、専務取締役の承認を得て、私の退職は決定的なものとなった。退路を断ち、もう後戻りできないわけだから、前に進んで起業するしかない。そう覚悟を決めた瞬間、これまでの人生の中でも経験したことのない解放感、期待感、ワクワク感がカラダ中を走った。上手く表現できないのがもどかしいが、その覚悟した瞬間は、「あかりのない真っ暗闇の狭い道を手探りでさ迷い歩いていたが、ある日突然、そこに光がさして一気に視界が開け、道が拓けた」ような、まるで映画やドラマを見ているような感覚を経験した。不思議なもので覚悟するまで不安がいっぱいで頭から離れなかったのに、決めた瞬間に不安はいつの間にかすべて期待に変わっていた。
サラリーマンを卒業、自由を手にする。
1年がすぎ、2006年3月31日の最終出社日を迎えた。どこの会社でもあると思うが、夕方から職場でセレモニーが行われた。仕事でお世話になった方々が集まってくれて、おおよそ100人近く集まってくれた。本社の課長であれば、転勤、海外赴任、出向などで移動するためのセレモニーとなるのが通常だが、「好きなことで脱サラ起業するために会社を辞める」という課長は前代未聞だった。私自身も長い会社生活の中で一度も聞いたこともなかった異例中の異例なことだった。
花束をもらい一言挨拶したが、私はこんな挨拶をした、「私はみなさんよりも一足早く、この会社を卒業します」と。1986年4月1日に入社して、ちょうど勤続20周年の記念すべき日だったこともあり、”卒業“という言葉が相応しいような気がした。それは何物にも代えがたい「自由」を手にした瞬間だった。